そんな日が多い、気がする。
「なんかあったの?」と聞かれたところで、特に理由はないのだけど。
なんだろう、この白でも黒でもなく、未来でも過去でもなく、それでいて「灰色」でも「現在」とも言い難いこの瞬間が、僕の目の前をゆったりと流れているのだ。
いわゆる5月病というやつだろうか。なんかこう、そういった世間の言葉に当て込まれることすらめんどくさい気分だ。
僕のこのどうしようもない部分に、簡単に名前をつけてこないでほしいとすら思う。
この日常に満足しているかと聞かれると、とてもイエスとは言い難い。それでも僕は、僕なりに恵まれていると思う。
そして、平然とした表情でこう口にする。
「こんなに恵まれているのに僕は」
僕は、の続きは自分でもわからない。
いや、正確に言うと、わからないふりをしていたい。僕が1番わかっているから口にするのが惨めで仕方ないのだ。
僕が1番わかっていて惨めなこと。
僕はいつから僕のことがわからなくなったのか。ここはどこで、これからどこに向かえばいいのか。
パターンA:理想度100、リスク120
パターンB:理想度50、リスク50
パターンC......
いつも僕の頭はシュミレーションマシーンで、どうすればここから脱却できるかを試行錯誤している。
何かを得るには、何かのリスクを背負わなきゃいけなくて、僕はそのリスクを最小限に留めておきたい人間だ。だから、何度もシュミレーションを繰り返す。
どうすれば失敗しないか、どうすれば苦しまないか、どうすれば損をしないか、、、どうすれば。どうすれば。
不安は起きていないことに対する反応だと、どこかで教わった。僕は、常に不安と共に生きている。できるだけリスク...ううん、傷つくことを避けたい僕は、シュミレーションを繰り返しては、その不安を増幅させるのだ。
そんな僕のことなんてお構いなく、時計の針が天に揃えば、迎えてもいない明日がやってくる。
僕は、その" 僕なりに恵まれている "明日のために、ベッドにもぐりこみ、少しだけ布団を丸めて胸にたぐりよせる。「眠れる 音楽」と検索して出てきた知らない川の音を聴きながら、明日を、今日として馴染ませるために眠りにつくのだ。
なんだかそういうことに疲れた。
頭の中の世界と現実世界のギャップというのだろうか。その頭の中すら、本当の僕ではない気がすることだろうか。
とにかく、「なんか僕ではない」という感覚に疲れたんだと思う。
かと言って、向かいたい先や目指したいもの、何かを捨てて「これが生きる全てだ!」と強く生きることなんてできない。胸を張って「すき」「できる」と言えるものが、僕にはない気がするのだ。だから僕は現在地のわからないここに立ちつくしている。
このへんで親にも謝りをいれておきたくなる。こんな中途半端な僕でごめんなさい。
そして、これらの全てを「人に話したところでどうしようもない」と斜に構える自分にも疲れているのかもしれない。人に話すことでラクになるとか、気が紛れるとか、僕が求めていることはそういうことではない。
僕が誰で、僕がどこにいて、これからどこに歩けばいいかを知りたいんだよ、と少し怒りっぽい口調で言い放ちたくなる。
わかってるんだ、こうして必死に怒りっぽくなるってことは、本当は求めてるんだってこと。期待して傷つくくらいなら最初からやらないって、僕から独りになってるだけなんだってこと。
プライドを高くして、人に期待しないことで、自分を保ってるんだよ。
だから疲れたんだよ、僕は。
"恵まれている" のは、僕が僕のことを僕以下に見ているからって側面もあるのかもしれない。僕は、僕なりに傷ついたり、僕なりに悲しくなったりしている。でも、僕は僕だから、それを肯定できないでいる。そういうことなのだ。
僕はきっと、僕じゃない僕に疲れて、僕じゃない僕を持った僕すら受け止めてくれる場所を、探しているのかもしれない。きっとそこで、僕のまま僕のことを話したい。
もしかしたら、本当の問題、というか欲望はそこにあるのかもしれない。そして、僕は本当の僕のことをわかっているつもりだけなのかもしれない。
あ、今とてもめんどうなことを口にしてしまったな。
過去の私と、いつかおふたりトークで出会える誰かを思って書きました。
竹口和香
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